妻の超然
著 者:絲山秋子
出版社:新潮文庫
発行日:2013年03月01日
内容(Bookデータベースより引用): 結婚して十年。夫婦関係はとうに冷めていた。夫の浮気に気づいても理津子は超然としていられるはずだった(「妻の超然」)。九州男児なのに下戸の僕は、NPO活動を強要する酒好きの彼女に罵倒される(「下戸の超然」)。腫瘍手術を控えた女性作家の胸をよぎる自らの来歴。「文学の終焉」を予兆する凶悪な問題作(「作家の超然」)。三つの都市を舞台に「超然」とは何かを問う中編集。
所感: 絲山さん文庫化最新作。
大好きな絲山さん!!!
のはずなのだけれど…本書はあまりページが進まなかった。
なぜだろう。
別段、読み辛いというほどでもなかったのだけれど、
なぜだか、乗り切れなかった。
【超然】
物事にこだわらず、平然としているさま。世俗に関与しないさま。(大辞林より)
本書には三人の立場による「超然」が収められている。
・「妻」の超然
・「下戸」の超然
・「作家」の超然
夫の浮気を知りつつも超然としている「妻」の理津子。
しかし夫・文麿の「妻」として、
或いは夫・文麿に対して、
「わからない」ということがわかってしまったとき、
「超然」はある言葉に変化する。
「超然」の言い換えが妙(=きわめてよいこと)だ。
なるほど。
「わからない」の原因は「超然」だったのか、と
妙(=不思議なこと)に納得してしまう。
「下戸」の広生。
九州男児であっても飲めないことに超然としている。
飲めないこと自体はどうでもいい。
「飲めない」からついてくる「しがらみ」が鬱陶しい。
そして身近なひとの善意の厚顔さに辟易する。
善意のひとりよがりな傍若無人に対する意見には
心から同意する。
これほどやっかいで面倒なことはない。
さて問題は最後の作家。
とても読み辛かった。
色々なことに超然としている「作家」の私。
腫瘍切除術を受けることになり、
手術の結果、嚥下障害と嗄声の可能性が生じると聞いても
医者の前で冷静を装う。
しかしその心の裡は葛藤に不安に強がり。
とてもじゃないけれど「超然」とはいられない。
絲山さんは自身の経験を作品に生かすことが多い。
邪推なのだろうけれど(そうであってほしい)、
もしかして絲山さんがこの病を経験したのか?と
勘ぐってしまった。
三人の「超然」を通して絲山さんは問う。
「超然とは何か?」
わたしが本書を読んで導き出した答は…
「超然」とは「装う」ものなのだろうな。
「ほとんどの人においては」と注釈をつけて。
『妻の超然』収録作品 ・妻の超然
・下戸の超然
・作家の超然
一番好きなのが『逃亡くそたわけ』だから、たぶん惠さんとは微妙に違うとは思うのですが・・・・・・。
なんと言うか……普通とはずれた普通を生きているという感じが、薄くなったというか、怨念・・・・・・じゃないけれど、なんかそんなようなものを感じなくなったというか・・・・・・。
円熟?
まあ、そのあたり、惠さんはどう感じておられるのかなぁ、と。